唯物論とか唯心論とかいうものは、物事の実在とは何かを考える哲学です。物質が本質的な実在で、精神的なものが副次的なものだと考えるのが唯物論。精神が本質的な実在で、物質的なものが副次的なものと考えるのが唯心論です。なので唯物論では思考を含むあらゆる精神の作用が物質の作用の表れだと考え、精神的なものは本質的な実在だとは考えません。「思考が五感からしか発生しない」という考えは、人の思考は外部からの刺激から誘発されるだけだという考えで、古い人間機械論です。実際は人間の思考は脳内の物理的な状態やその変化によっても影響を受けるので、単純に外部からの刺激への反応という形にはなりません。とはいえ、最終的には人の物理的身体の状態と、外部の環境との相互作用の総体によって決定されるとは考えます。
かれは
何気に理学博士(物理)。でも薄給プログラマで食い繋ぐ生活。唯物論者。インコ第一主義。生存時間がようやく半世紀を越えた。
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「電波」
私は昭和生まれだけど、無線、ラジオ、テレビはすでにあったからね。電波は生まれたときからすでにインフラだった。 一方でインターネットは私が大人になってから定着したものだからね。新しい革命だったはずなんだけど、今では「生まれたときからすでにあるインフラ」と変わり無い。 その意味で、昭和な感覚で言うなら、インターネットは電波なんだ。 実際ネットラジオもあるしね。
これを言うとアレだけど、役に立たないニンゲンどもを何億人も救うことよりも、今信じてる物理法則が本当に宇宙全体過去未来に渡って通用するのか検証する方が、よほど哲学的に価値があるとは思わぬか?
いや、国や社会がそんな風に思ってるとは思わないが、ひょっとして本音では、深層ではそんな心の働きが作用してたりはしないか。しないね。ごめん。
セルフ二次創作の非公式は、作者自身の作品とはいえ、それが公式か非公式かを作者が決めているという点では、通常の公式の仕組みと変わらないですね。
はなかっぱ番外編の方では、原作とアニメという媒体が異なると内容の設定自体も異なってきて、題名が同じでも別作品ととらえる必要があるんでしょうね。
ふーむ。まだ、はっきりとは理解してませんが、公式かどうかということは、オリジナルかどうかと関係していそうな気がします。著作権などと同様に、社会的に保証される概念であって、実在はしない、仮想的なものだと考えられます。
何らかの作品があったとして、またそれに対するファンブックがあったとする。公式ファンブックと言われるものは、作品の作者が監修して、良し、としたものに限られる。つまり、公式というものは、作者がそれを認定する権利を持っているのであって、オリジナリティに起因する。この点が、作者が作品を複製する権利を自由にできる、著作権と似ている。
子に魂が宿るのはいつか? 受精した瞬間、遺伝的にはそれは独立した個体である。みかんに種があるなら、たとえそれがまだ親の木に着いていたとしても、それはすでに独立した個体である。みかんが木から切り離されたかどうかは、そこではあまり意味が無い。
そうですね、善があるから社会が維持されるというよりは、社会が維持されていることが善であるとも言えるし、同時に起こっているわけです。 なので、善悪の定義を外に求めているわけではなく、内包しているのです。 また、これは実際に観測されることを解釈しただけであって、必然の結果だというのは、その通りです。 見方によってはトートロジー、何も言っていないことにしてしまうことも、できるでしょう。 宇宙論で使われる人間原理と同じ構造です。
統計は、空間的な統計と、時間的な統計があります。 一人の人に着目した場合、その人が長い時間活動すると、良い行動をした時間の方が、悪い行動をした時間よりも、ずっと長いことが期待されます。これが統計的性善説の、時間的統計の主張です。 一方で、ある瞬間に着目した場合、良い行動をしている人の数の方が、悪い行動をしている人の数よりも、ずっと多いことが期待されます。これは統計的性善説の、空間的統計の主張です。 決して善悪が固定されているわけではありません。
そうですね、生物は生きている間は自分の形を保って居られますが、死ぬとエントロピー増大に従って崩壊するのみです。生きている間はエントロピー増大に逆らってるわけですね。 もちろんそのエントロピー減少は局所的であって、生物を取り巻く環境も含めると、全体としてはエントロピーが増大しているわけですが。 生物の体自体だけでなく、行動によって環境を変えて行く作用でも、局所的なエントロピーの減少は見られます。秩序ある形状の巣を作るとかですね。人間の場合はもっと器用に色々な物を作りますが、エントロピーが低い秩序立った構造のものを作りますよね。
まじめに論理式を立ててくるとは…。 私が想定していたのは、上の話を架空の存在に当てはめたときのことです。
例えば、幻想上の生物「ドラゴン」が存在するか考えたとき、ドラゴンについては P(ドラゴン) なのか ¬P(ドラゴン) なのか。
存在しないものは存在しない(前者)、と考えるなら、ドラゴンは素直に存在せず、 ¬P(ドラゴン) ですが、
存在しないものは存在しない(後者)、と考えるなら、ドラゴンも存在して、 P(ドラゴン) になるはずです。
後者では、前提では ¬P(ドラゴン) と言っていたのに、それが覆されるのです。
そうですね、それは、とても唯物論的だと思いますよ。人間の感情など精神的なものが、それ自体に本質が無く、物質や物質の分布あるいは作用によって表現されるものだ、という考えは、確かに唯物論的です。
唯物論的な表現が夢があるかどうかは、人によって感じ方が違うようですね。多くの人たちは物質は精神より下等なものだと考えているらしくて、精神が物質で表現できるという主張には拒否反応を示すようです。
相対論を知ってる人は世界を4次元だと言うけど、それはユークリッド空間じゃなくてミンコフスキー空間だから、世界は3次元だと言った場合と直接比較はできませんよね。まぁ空間構造の違いも含めて高次元だと言えるのかもしれませんが。
物理学では相対論で時間を空間と一緒に扱うのが普通になってますが、哲学ではまだまだ時間は特別なもので、空間と一緒に扱うのには抵抗がある場合も多いようです。それに物理学でも一般相対論と量子論はまだ統合できてないわけで、もしかすると時間の扱いにまだ秘密があるのかもしれませぬ。
古代ギリシャの哲学者たちは、面倒な仕事は奴隷たちに任せてるので、暇で暇で仕方無いので、無意味な議論をして時間を潰してました。それが哲学の始まりというわけです。学問の意味のスクール、スカラなどの語源は、古代ギリシャ語で「暇」という意味です。
哲学の唯一の機能は、無意味な議論をして時間を潰すことです。答えの無い問題をテーマにするのは、そのためです。永遠に暇を潰せますからね。
哲学者には2つのタイプがあります。幸せな哲学者と、不幸な哲学者です。幸せな哲学者は、幸せなので、もう他にすることが無いので、哲学で暇を潰します。不幸な哲学者は、絶望していて自殺しそうなので、気を紛らわすために哲学で自殺を延期します。結果的に、人が生きるための役に立っていると言えば、そうも言えるでしょう。生きることが良いことかどうかは別ですが。
実際の空間が4次元以上なのに、人間の認識力や創造力の限界で、4本の棒を直交させることができない、という可能性は、あるんでしょうかねえ。
人間以外の動物は、人間が作れるような高度な道具を作ることができませんが、それは人間の認識力や創造力が動物より優れているからだと考えられます。逆に言えば、人間より優れた知性体がもし居れば、人間には作れない高度な道具を作っちゃうんでしょう。
とすると、高次の知性体は、この現実空間の中で、4本の棒を直交させることができてしまう可能性も、無きにしもあらず、と思ったりもするのです。
生活感からだと思います。人々は地上で暮らしてますが、地上は2次元です。他に観測できる次元は空飛ぶ魚と海の鳥…じゃなかった、空飛ぶ鳥と海の魚くらいです。その上下方向を足して3次元です。それを越える方位を人々は観測できません。
いわゆる「メンション」すなわち「誰かに通知」ないし「誰か他者を参照」に当たる機能を手探りしてみた。 「@kareha」などと@を着けてユーザ名を書くと、そのユーザが存在する場合は候補が表示されるので、それを選ぶとリンクに変換される。 どうやら Markdown 形式でリンク化されるようだ! こんな感じ : @[email protected] ←
[.cafe](https://philosophy.cafe/u/kareha)



言葉の定義は自由ではありますが‥「善」と「いいこと」は同じ意味に思えるので定義としては循環して良くないように思えます。また、「無報酬な行ない」自体は善でも悪でもないと思います。無報酬で悪いことも出来るはずですからね。無報酬かどうかは、善い行ないをより善いと考えることが出来る付加価値のようなものではないかと思います。と考えると、本質的な善ではないようにも思えますね。