天文学の中でも、初期の宇宙(初期の意味する所は一意でないが、例えば宇宙始まって数十億年以内とか)の研究は精力的に行われている。
しかし、正直な所、100億光年も離れた過去の宇宙の事を詳しく調べる事は直接的な応用先がある気がしない。即ち、「役に立たない学問」の代表例だと思う。
もちろん副次的に発達した技術が別の分野に応用される(衛星技術とか)はあるが、あくまで副産物であり、宇宙を理解したいという好奇心が原動力であるように思う。
しかし、そう考えると、こうした研究に莫大な予算や金、人生を費やす事はどこまで「知りたいから」で正当化できるのだろうか。
ぶっちゃけこうした研究の一切を止めても生活はほとんど変わらないだろうが、医療研究とかを止めたら支障が出る。研究に使える予算は限りがあるから、役に立つ事を一番の基準にすると、宇宙の研究はだいぶ不利になるように思う。かといってそれを切り捨てるの違う気がする(し実際切り捨てられていない、今の所は)。
学問てどこまで役に立たなくていいのだろうか。また、こんな宇宙はなぜここまで人をひきつけるのだろうか。


僕は学者じゃないから生の情報をきみにつたえることはできないかもしれないけど面白そうだったから、意見だけ述べようと思う。
まず学問は、可能性だと思う。人類はみんなが一致団結して一つの方向に進むのではなくて、多様な規模の人々の集まりがそれぞれ指向性をもってなにかを達成しようとする。その任意の目的を達成するうえで学問で発見された知見が活用されていく。医療と宇宙研究、そちらとも中止したときに支障の出る具合にちがいがでるのは、まさに今僕が述べた同じ指向性を持つ人々の集まりの規模の大きさによって左右されるのではないのだろうか。
というのも医療研究によって健康が増進され長生きできることは、マイノリティの人々を除くすべての人の夢であるだろう。これは時代によっても変わる。例えば冷戦時代、アメリカとソ連の間で苛烈な宇宙開発競争が繰り広げられていた。こんな状況下で、アメリカで宇宙開発が停止したら国の威厳にかかわる。多くのアメリカ人にとって支障をきたしたわけだ。
いかに多くの人がその分野に対して前向きであるかということが、研究を左右する。僕はそう思う。そして人々が求める研究は時代によって変化することも述べた。つまり学問のブームはある種予測不可能な面がある。しかしどんなブームが来ても、その発展を包括してくれるのが学問だ。
だからこそ、どのような場面でも活用されるかもしれない学問は可能性だと思う。
というのは僕の意見だ。分野を問わずあらゆる学問に対してブームが起きた時代がヨーロッパにはあってそれは啓蒙主義の時代だ。当時の人々の中で学問がブームになったのは、学問という可能性を後世に託そうとかいう考えが巻き起こったからではない。神の意図が学問を通じて理解できるはずだと、当時の人々が信じたからだ。
当然このヨーロッパの歴史も学問の発展した一つのケースでしかない。キリスト教に関係なくイスラム圏でも学問のブームが起きたこともあった。
しかし現代では僕が最初に述べたようにあらゆる物事の発展へのあしがかりになるのが学問だ。つまりあらゆる国が自国の発展のために可能性に投資するのだ。何に役立つかわからない学問でも、いずれ人類の発展の布石になる可能性がある。これだけで正当性は確保される。
主観だけど宇宙に惹かれるのはロマンだと思う。