minus-squarelevinasianOPto哲学カフェ(日本語)•哲学は何をするべきかlinkfedilink日本語arrow-up1·2 months ago自分としては、哲学に果たすべき役割があり、何らかのできることがあると思っていますが、一旦それをペンディングして、敢えてここで自分が掲げた問いに否定的な答えを持つ立場から、頂いたコメントに対して(不遜にも、不躾にも、そして不完全な)反論じみた何かを返したいと思います。(個別に返信するべきかもしれませんが、まとめて書かせていただきます。すみません。) 哲学以外の他の学問もまた、おそらく何らかの真理を求めている、と言っていいと思います。すると、他の学問が探究できない真理が何かがある、ということが前提になりそうです。(自分の意見としては、まさに「真理とは何か」という問いへの答え、いわば「真理についての真理」がそうだと思っていますが、上述の通りその考えを封印していうと)ですが、他の学問、とりわけ科学によって探究できない真理に、そもそも何らかの価値があるのでしょうか。そのような非科学的な真理は、例えば、世界は闇の政府によって操られているという陰謀論的な「真理」や地震の原因を占星術で求めようとすることと何が違うのでしょうか。もし、そのようないかがわしい真理もどきを避け、学術的といえるような客観的な真理を求めるならば、それは結局のところは科学的な真理となるではないでしょうか。 何らかの価値があるのか、ということを述べたので、次に価値の(再)定義説についてコメントをします。 まず、哲学に価値を定める機能があるかどうか、について考えたいと思います。例えば哲学者がいかに人権を守るべきという価値を掲げたとしても、人権侵害がなくなることはないでしょう。少なくとも、現段階では人権についての哲学者の発言にもかかわらず、侵害がなくなったとは思えません。すると、仮に哲学(者)によって価値の定義や再定義が図られたとしても、そのことは、哲学が定めた価値が実際に、哲学をしていない人々にも行き渡り、何らかの実際的な効力(人権侵害がなくなる、といった)を持つことを意味しません。言ってみれば、机上の空論にしかならないわけです。例えばドゥルーズは、人権という概念は結局は知識人のための概念に過ぎないと言いましたが、まさにそのように、哲学を「弄ぶ」人たちだけで価値が云々されても、それはせいぜい一部の人たちだけであり、結局大勢に変化はない。もし事態がそのようであるならば、少数の人だけにあてはまる価値の定義という瑣末な機能しか哲学にはないことになるでしょう。 もっとも、フランス革命にせよ、国連にせよ、哲学的な思想が現実になんらかの効力をもった事例もあげられそうです。すると、少なくとも場合によっては、実際に価値を定義した上で、その価値を現実に反映させることも可能だとするべきかもしれません。 しかし、もしそうだとしたら次の問題があるように思います。それは、価値の再定義が必ずしも肯定的なものになる保証はどこにもない、ということです。哲学における相対主義やニヒリズムが示すように、既存の価値を疑うこと、転換することは、何らかの「善い」とされる価値の否定や、価値そのものの否定も含まれます。すると、哲学が、生きることに肯定的な価値を定めたり、生きることの意味を語ったりするとは限らず、むしろ生の無価値さ、無意味さを主張する可能性にも開かれています。さらにいえば、もし哲学自体が何らかの価値をこれまでに有していたとするならば、価値の再定義によって、哲学には大した価値はないと再定義することも可能なはずです。つまり、哲学が価値の再定義をするならば、まさにその振る舞いによって哲学自体には価値がない、とする余地が生まれることになりそうです。 生活の態度、対話すること、より良い理論体系、問うこと(とまとめてしまいましたが)に関しては、いずれも哲学に固有の役割をあてがうというよりも、哲学を、日常的な場面を含めたより広い文脈で解釈するという点で共通しているように私には思われました。それはもちろん魅力的な考えではありますが、その場合、特に(とりわけ専門的な研究といった観点での)「哲学」は存在しない、あるいは不要ということに近づくように思います。確かに、例えば「問うこと」に哲学を見出すのならば、それは哲学がある意味ではどこにでもあるもの、身近なものになり、まさにそのことに哲学の役割を認めることも可能であるように思います。ですが、それなら特に専門的な研究をする必要はなく、日常の営みだけで十分に哲学が完結するということになるのではないでしょうか。 以上、一応敢えて反論的な何かを述べてみましたが、本音としては、既に示唆したとおり、何らかの学問がその学問の中で見出す真理について、その真理がなぜ真理といえるのか、真理を真理たらしめるものはなにか、という点を考えるのが、哲学のなすべき仕事の一つに数えられると思っています。また、専門的な研究に(極めて些少に)携わっている身としては専門的な研究に意味を見出したいところですが、それとは別に、日常的な場面において哲学が「生きている」という考えはすごく魅力的に思います。哲学の営みは、ある意味では絵を描くことと似ていると思っていて、絵を描くことは誰にでもできるし、AIにもできる。しかし、それにもかかわらず、専門家としての絵描き・画家がいるように、誰にでも考えたり問いを出したり対話したり、そのような仕方で生活の中で哲学することができる、あるいは生活そのものに哲学が溶け込んでいると言える。でも一方で、そこから地続きに、専門としての哲学(研究)が果たすべき仕事があると思っています。そのように捉えることで、まさに生きることと、専門的なものも含めた哲学が重なり、哲学を肯定することで、生を肯定する(これもドゥルーズ的ですが)こともできるのかもしれません。 linkfedilink
levinasian to 哲学カフェ(日本語)日本語 · 2 months ago哲学は何をするべきかplus-squaremessage-squaremessage-square4linkfedilinkarrow-up13
arrow-up13message-square哲学は何をするべきかplus-squarelevinasian to 哲学カフェ(日本語)日本語 · 2 months agomessage-square4linkfedilink
自分としては、哲学に果たすべき役割があり、何らかのできることがあると思っていますが、一旦それをペンディングして、敢えてここで自分が掲げた問いに否定的な答えを持つ立場から、頂いたコメントに対して(不遜にも、不躾にも、そして不完全な)反論じみた何かを返したいと思います。(個別に返信するべきかもしれませんが、まとめて書かせていただきます。すみません。)
哲学以外の他の学問もまた、おそらく何らかの真理を求めている、と言っていいと思います。すると、他の学問が探究できない真理が何かがある、ということが前提になりそうです。(自分の意見としては、まさに「真理とは何か」という問いへの答え、いわば「真理についての真理」がそうだと思っていますが、上述の通りその考えを封印していうと)ですが、他の学問、とりわけ科学によって探究できない真理に、そもそも何らかの価値があるのでしょうか。そのような非科学的な真理は、例えば、世界は闇の政府によって操られているという陰謀論的な「真理」や地震の原因を占星術で求めようとすることと何が違うのでしょうか。もし、そのようないかがわしい真理もどきを避け、学術的といえるような客観的な真理を求めるならば、それは結局のところは科学的な真理となるではないでしょうか。
何らかの価値があるのか、ということを述べたので、次に価値の(再)定義説についてコメントをします。 まず、哲学に価値を定める機能があるかどうか、について考えたいと思います。例えば哲学者がいかに人権を守るべきという価値を掲げたとしても、人権侵害がなくなることはないでしょう。少なくとも、現段階では人権についての哲学者の発言にもかかわらず、侵害がなくなったとは思えません。すると、仮に哲学(者)によって価値の定義や再定義が図られたとしても、そのことは、哲学が定めた価値が実際に、哲学をしていない人々にも行き渡り、何らかの実際的な効力(人権侵害がなくなる、といった)を持つことを意味しません。言ってみれば、机上の空論にしかならないわけです。例えばドゥルーズは、人権という概念は結局は知識人のための概念に過ぎないと言いましたが、まさにそのように、哲学を「弄ぶ」人たちだけで価値が云々されても、それはせいぜい一部の人たちだけであり、結局大勢に変化はない。もし事態がそのようであるならば、少数の人だけにあてはまる価値の定義という瑣末な機能しか哲学にはないことになるでしょう。 もっとも、フランス革命にせよ、国連にせよ、哲学的な思想が現実になんらかの効力をもった事例もあげられそうです。すると、少なくとも場合によっては、実際に価値を定義した上で、その価値を現実に反映させることも可能だとするべきかもしれません。 しかし、もしそうだとしたら次の問題があるように思います。それは、価値の再定義が必ずしも肯定的なものになる保証はどこにもない、ということです。哲学における相対主義やニヒリズムが示すように、既存の価値を疑うこと、転換することは、何らかの「善い」とされる価値の否定や、価値そのものの否定も含まれます。すると、哲学が、生きることに肯定的な価値を定めたり、生きることの意味を語ったりするとは限らず、むしろ生の無価値さ、無意味さを主張する可能性にも開かれています。さらにいえば、もし哲学自体が何らかの価値をこれまでに有していたとするならば、価値の再定義によって、哲学には大した価値はないと再定義することも可能なはずです。つまり、哲学が価値の再定義をするならば、まさにその振る舞いによって哲学自体には価値がない、とする余地が生まれることになりそうです。
生活の態度、対話すること、より良い理論体系、問うこと(とまとめてしまいましたが)に関しては、いずれも哲学に固有の役割をあてがうというよりも、哲学を、日常的な場面を含めたより広い文脈で解釈するという点で共通しているように私には思われました。それはもちろん魅力的な考えではありますが、その場合、特に(とりわけ専門的な研究といった観点での)「哲学」は存在しない、あるいは不要ということに近づくように思います。確かに、例えば「問うこと」に哲学を見出すのならば、それは哲学がある意味ではどこにでもあるもの、身近なものになり、まさにそのことに哲学の役割を認めることも可能であるように思います。ですが、それなら特に専門的な研究をする必要はなく、日常の営みだけで十分に哲学が完結するということになるのではないでしょうか。
以上、一応敢えて反論的な何かを述べてみましたが、本音としては、既に示唆したとおり、何らかの学問がその学問の中で見出す真理について、その真理がなぜ真理といえるのか、真理を真理たらしめるものはなにか、という点を考えるのが、哲学のなすべき仕事の一つに数えられると思っています。また、専門的な研究に(極めて些少に)携わっている身としては専門的な研究に意味を見出したいところですが、それとは別に、日常的な場面において哲学が「生きている」という考えはすごく魅力的に思います。哲学の営みは、ある意味では絵を描くことと似ていると思っていて、絵を描くことは誰にでもできるし、AIにもできる。しかし、それにもかかわらず、専門家としての絵描き・画家がいるように、誰にでも考えたり問いを出したり対話したり、そのような仕方で生活の中で哲学することができる、あるいは生活そのものに哲学が溶け込んでいると言える。でも一方で、そこから地続きに、専門としての哲学(研究)が果たすべき仕事があると思っています。そのように捉えることで、まさに生きることと、専門的なものも含めた哲学が重なり、哲学を肯定することで、生を肯定する(これもドゥルーズ的ですが)こともできるのかもしれません。